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すれ違った人たちについて

もう会わなくなった人がどれくらいいますか。

 

わたしは結構います。

辞めたバイト先、転校して身近にいなくなった友達、昔の先輩。とか。

 

たまにインスタとかでどこからか流れてきて、ああ、元気そう。とか、活躍しているようで、良かった。みたいな形で間接的な再会をすることもあるけど、

だからと言って、じゃあDMして連絡取ってみようなんてなることは本当に稀だし、その後ラインは交換して端末上ではよく話すものの、やっぱり実際会おうってなることは少ないし、会おうって言ってたとしても実際何かしらで会えずに終わってまたの機会に、となることもあるし。

 

要するに、会わなくなった人とまた会うのって、お互いに会う意思無しにはできないことだと思う。

 

 

じゃあ、

これからもう二度と会わないだろうってかなしい予想が立ってしまう人は、どれくらいいますか。

 

わたしは、結構、たくさん、いる気がしてしまう。

 

事実として何年も会ってないわけではなくて、わりと別れたあと時間が経っていない方なのに、何らかの理由で「もう会わないだろうな」って、なぜか思ってしまいたくなる人。

 

数年のあいだにたくさんできてしまった。

 

大学入学当初、勉強ですごくお世話になった先輩。遠距離恋愛の結論として別れた恋人。最初は意気投合していたのに、だんだんと価値観が違ってきて連絡も取らなくなった友人。あとは、そのひとたちの周りにいた人たち。仲の良かった思い出だけ取り残して、とんずらしてしまいたいから、会いたくない。お世話になった記憶が、痛い。

 

あのときお世話になったから。あんなに仲良くしてたから。

そんな風に、すこし歪んだ情の湧き方をしてしまうと、余計に関係がぎくしゃくする。

 

すれ違ってしまったんだ、と思えばいい。

 

最果タヒさんという文字を書く人の文章を、たまたまツイッターで読んだ。

もともと好きな感じの文章を書く人だと思っていたけど、まとまった量の文字列を見るのがはじめてだったのと、ああやっぱり好きだ、と確認したのとで心地よい衝撃を受けた。

 

宇多田ヒカルが好きなひとは世の中にありふれていても、それが何故なのかとか、どんなふうに好きとかいうのをちゃんと語れるひとなんて、たぶんそんなにいない。

まぁ、小難しい何とか理論とか音楽市場がどうのとか、リスナーとか時代の流行がとかの、宇多田ヒカルでもその人自身でもない、まったく外在的でどうでもいいトピックに縋ってなら、いくらでも語れそうなひとはいるんだろうけど。

最果タヒさんは自分自身についてただ真実を語っているような気がしたので、個人的には好ましかった。そして、その人は「宇多田ヒカルという人物と、人生においてすれ違った」のだそうだ。別に引用ではないけど、なんとなく強調したくなったので、かぎかっこをつけてみる。

 

どういうことかというと、

宇多田ヒカルという人物そのものに特に興味が湧くわけでもないし、直接の接点も別になくてまったくの他人であるのに、宇多田ヒカルの歌は最果さんの過ごしてきた時間の随所に記憶のイメージとして溶け込んでいる。それほどの存在感があるのに、やっぱり宇多田ヒカルのプロフィールや生い立ちにはいまだに関心がない。わたしの誤解がなければ、それをもって最果さんは宇多田ヒカルと「すれ違った」という。

 

わたしたちもまた、すれ違っている。

 

数々の媒体で間接的に出会っているのに、お互いに顔も名前もいつ会ったかもわからない。

影響は確かに受けあっているのに(FF数とかアクセス数とか何かしらのリアクションとか単純に感動するとか)おそらく現実で媒体での活動について話すこともあまりない。というか、なくていいので楽だし、暗黙の了解であちらとこちらは別世界、ということになっているようなのでそれに甘んじる。

 

もう会わなくなった人も、これからおそらく会わなくなるであろう人も、それと似ている。影響は、きっとお互い(かどうかはわからない。片方は覚えていて、片方は簡単に忘れられているのかもしれない。)に継続する。人間は、たまに思い出したりするからだ。だけれども、よっぽど会おうとしなければ、きっと会わずに終わる。

 

わたしは懐古主義的なところがあるので、日常的に異常なくらい昔の記憶を引っ張り出したりしまったリする癖がある。そういう人間なので、会っていない人たちの影響はむしろ、いま週に何度も顔を合わせる人たちよりも、たぶん何十倍も強い。

でもそれは、彼ら・彼女らについて私の持つイメージに影響を受け続けているというだけのことで、彼ら彼女ら自身や、今の姿を知ってのことではない。そこは、区別していないと間違いだと思う。

 

会わない人たちが今ごろどうしているのかと考えるとき、わたしは独り相撲をしているだけなのだ。実際に彼らや彼女らが今の私と交信しているわけではないのに、なぜか一方的に記憶から引っ張り出して思い出しているだけで、現在も意思だけは疎通できているような、そんな変な疑似の感触に襲われることがある。それは、ただ単に自己満のために感傷に浸っているだけで、ナルシシズムに近いと思うので、早くやめたい。

 

会わない人たちとは、会っていないということは、もう既に遅いのだ。既にすれ違ってしまったあとなのだ。事実はきちんと受け止めるべきだ。そうでないと対応を間違えるから。それに、いま会えている人たちともいずれはすれ違うのかもしれないし、いちいち何かあるごとに思い出の引き出しを開けるのはやめて、現在のことに脳ミソを置き続けるべきなのだ。数日前や一週間前のことで今の頭の容量をいっぱいにしていても、いったいなんの足しになるのだろう?

 

すれ違った人たちについては、もう諦めるべきだ。

 

次がないことだってある。

安いコーヒーとコンビニのマカロンの相性はいいと個人的に思う

さいきん熱いコーヒーが飲めるようになった。

前は猫舌で全くダメだったのだが、この歳になって改善しつつあるようで嬉しい。

 

 

昔のことを思い出している。小学生のころ、わたしは男の子も抜かして一番背が高くて、体力もある方で、勉強も好きで、勝ち気で男勝り、来ている服もユニクロやGapの男物、スカートなんか意地でも履かないし、何が何でもショートカット。口から飛び出る漫画で覚えたスラング、すぐに手が出る足が出る。尊敬できない先生には徹底抗戦を張り、議論も厭わず、成績が優秀なら大人とも対等な態度でいて文句ないだろう、みたいな高飛車なところもあったりして。なんだか懐かしいなぁなんて呑気に思い返しているけれど、当時の周りのひとたちは、きっと大変だっただろうなー。

 

小学3,4年ごろのクラスメイトに話すとき、「お前、変わってない」と言われるけれど、どうなんだろう。自分では一応、問題のある所は変えてきたつもり。なんだけどな。わからない。

 

中学生のころは、逆に大人しすぎてほとんど誰とも話さなかった記憶がある。

正確に言えば、小学校の高学年のときに個人的にいろんな意味で大きな出会いがあって、そこから徐々に内面的に大人びてきたような。

2年生からは担任の先生との相性が悪かったのと、高校受験のプレッシャーとでもはやうつ状態だった。高校はそれを3年間ずっと引きずってしまったのであまりこれといった楽しい思い出がない。

 

コーヒーに砂糖を入れ過ぎたみたいだ。最後の一口がすごい甘い。

ファーストフード店のホットコーヒーの、妙に味のきつくて舌に残る感じ、わりと嫌いじゃない。いかにもB級でしょとでも言いたげな、開き直った感じがむしろ清々しい。

 

他の人がこんなに日常的に過去を振り返ることがあるのかは知らないが、自分で自分のことをあまりにも懐古主義的だと思うことはよくある。

前はこんなじゃなかったのに。とか、あのときはああできたのに、今は。だとか、そういうちょっと過剰な振り返り方をしがちなのは、中学生のころに習慣化してしまっただけで、自分の生来の気質とはだいぶ違うような気もするけれど、なかなか直らない。困ったものだ。

 

このあいだ友達とお寿司を食べていて、ずいぶんいろんな話題で話した。「1回生のころと全然違う」と言われて、半分驚いたが、半分知っていたような。「そうだねー」と同意していた。まぁ、そうだよね。違うよね。

 

突然目の前に自由な空間が開けて、ここでなにをするのもあなたの自由よ、と言われても、たいていはその真っ白なキャンバスを持て余してしまう。

一番多感な時期をうつ状態で過ごしてしまい、好きな気持ちが枯れて義務化していた勉強という名の暗記作業以外に、なにもしてこなかった。その負い目もあって、やり方もわからないままにとにかく「らしくないこと」をした。それを継続した結果なのだから、大学に入学した当初と現在の印象に隔たりがあったとしても、当然のことなのだろう。

 

現在の印象としては「なんか、擦れた(笑)」とのことだそうだ。以前にもサークルの後輩に「擦れてますよねぇ」と言われたことがあるのを思い出して、だよねーとそこも同意した。

 

擦れてると言われてもまったく嬉しくはないけど、きっとその表現は適切で、いい変化をしたのかと聞かれれば、たぶんそうじゃないと自分で答える指標にはなる。

 

だからといって、良くしていこうと努力するのも違う気がして、結局話のネタにする以外に自分が擦れてしまったことについて何も行動はしていない。1人暮らしをはじめて2年が経過するところだが、この姿が生来のもののような気がしてきた。あとは、ネガティブ思考と懐古主義さえ、直れば。

 

たいていのことは時間が解決してくれるはずだ。時間の経過が軋轢を生むこともあるのかもしれないが、たぶんそれはわたしが御婆ちゃんになるまで生きていたとして、そのころに身をもって体験することで、今は関係がないだろう。たぶん。早く自分の言動に不自然や違和感を感じることがなくなればいい。もっと単純に、素直に生きていたいのだ。

 

他人のためにとか口に出す人たちは、他人のことなんかこれっぽっちも気にしてはいない。行動に出てしまうものだ。そういうのは。

 

世の中のためにとか、社会のためにとか、会社や組織に自分が貢献したいだとか、全部嘘だ。そんな漠然としたもののために、生命体が動けるものなのか疑問だ。世の中も、社会も、会社も組織も、ぜんぶ自分の中で本来のものとすり替わってる。

 

わたしも社会を変えたいだとか発信していた時期のある類で、いまそのときを振り返ると、ほんとうにわたしが変えたかったのはそれまでの自分のことだと結論がつく。そういった発信活動によって他のだれかになりたかった。自分の問題を直視できないから、社会に相手を置き換えた。曖昧なものに対する曖昧な発言には、必ずいいね!が送られてくる。

 

もう正直に生きていきたいから、自分のために楽しい人生を送ることに余念のないようにしたいけど、こういった背景もなにもかも、全部飛び越えてこれからの人物評価が自分に下るのだと思うと、ちょっと気持ちが拗ねてしまう。

 

安っぽいコーヒーを飲んだ後には、コンビニのマカロンが食べたくなる。でも、いつも売っているわけではないし、最近店頭に見ないので今日は諦めることにする。外出るの寒いし。

 

まぁ、他人の人物評価なんてものはそもそも厳密になされることなんかない。というか、他人の考えていることだ。わたしがわかるはずもなければ、相手もわたしの考えなどわからないだろうし、予想をつけたところで答え合わせもできはしない。

 

考えても無駄なことだ。それは、考える優先順位は最下位でいい。

自意識ばかり膨れ上がるのは危険なことだ。自分の発信することなど、たいていの人は目もくれぬ。振り向いてくれたら、目が合ったら、ラッキーなのだ。それだけ。

 

やっぱりマカロンを探しに行こうと思う。売ってたらラッキー、くらいで。

単純さについて

単純なものは、愛おしい。

 

怒ってしまいたいときにその場で怒ってしまえる無邪気さ。

他の人がいても、自分の世界に入り込んでしまえる横暴さ。

時折思い出したかのように他人のいる世界に戻ってきて、そこではあたかも最初からその場の空気に溶け込んでいたかのように振舞うくせに、いつの間にか気まぐれに自分の中へと戻ってしまっている。その横柄さが、たまにだけど羨ましい。

 

羨ましくてここぞというときに真似をしてみても、それはまったく単純さの純粋を失っているので、何の魅力でもない自分勝手に変わってしまう。自分が既に失っているものだと改めて知る。

 

単純なものの美しさ。

 

複雑なもので美しいのは、それが単純な規則に基づいて複雑化しているから美しいと感じるのだ。ただ混沌としているのは煩雑であって、特別に複雑なのではない。

単純なものはすべてのものの定礎で、可能性は無限大などというくさい文句までも正当化してしまう。その、美しさ。

 

単純なものは過不足がない。

余分なものの一切がない。

 

単純に生きている人は、強くて美しい。

言動に過不足がなく、余計な単語一つさえ発しない。それは自分の基準が明確だからなのだろうし、明確だということは、きっと単純なんだ。どこか、根幹が。

 

なぜ、人は余分な言動を発してしまうんだろうと思う。

それは迷いがあるからのような気がしてならない。

自分と他人の距離感。そこから生まれる配慮。あるは気遣い。お互い自分で勝手に決めてるだけなのに、まるで必然的に、自然にそうであるかのように感じてしまって、素直な反応を隠してしまう。その連鎖がつくる世間体、体裁、処世術。

 

人同士の素直な関係って、いつから作れなくなってしまうんだろう。

しかしそんな中で生き残ってきた単純さだからこそ愛され、大事にされるのだろうか。

自分の単純さは既に死んでしまっているようなので、遅い。

なんかさ。

空気が通り過ぎる。

 

しなりとした湿り気を感じる。今日は帰りに雨が降るかもしれない。

傘持ってきたっけ。あー、あったあった。ちゃんといつもの場所に入ってる。

 

今日も。今年も。そしてきっと、また来年の今ごろも。

 

きっと同じことしている。きっと変わっていない。相変わらず、髪色はアッシュがかった茶色で、ベースは杏子色。ああ、いつも担当してくれる美容師のお兄さんに言わせれば、アプリコット。携帯はきっといまだにiPhone5sを使ってるだろうし、ケースも買わないまま銀色のリンゴマークをむき出しにしているはず。そして週に二日はちょっと早く布団から出てゴミ出しに行ったり、おバイトに行って、バンドの練習がある日はサークルに顔を出して。

 

何かイベントがある日はお酒を飲んでほどほどに酔っぱらって、先輩と一緒ならほどほどに甘えて、後輩と一緒ならほどほどに構ってもらって、気が向けば楽器を弾いて、家ではたいていYouTubeの再生リストをだだ漏れさせながら、ぼーっと。過ごして。

 

きっと同じような毎日が、来年も待っている。

 

 

とは限らない。

 

新しいことを、特にするつもりはない。今のままダラダラ、ずっと過ごして入れたらいいのに。でもたぶん、否が応にも時間が経ってしまえば、周りが変わっていく。環境が変われば、自分もまた変化せざるを得ないだろう。それが、なんだか。

 

 

新年あけましておめでとうございます。や、良いお年を。がみんなを優しく時間の先端に押し出そうとする。わたしは留まりたくてしようがないのに。もうこれ以降の未来は要らないので、新しい年じゃなくて、今年の続きとしての来年をくれませんか。

 

 

今日は雨じゃなくて雪が降ってたらしい。わたしは見てないけど。

今日の続きとしての明日のつもりで、意味も理由もないのによく徹夜してしまうんだろうか。なんでもいいけど、今日も明日も今年も来年も、そんなにくっきり区別しなくたっていいじゃない。だってどうせ、一個の星がくるくるくるくる、とにかく回ってるだけのことなんだから。

 

 なんかそんなようなことを書きたくなったので書いちゃった。

はい。 

どうでもいいはなし

ここ最近、暗い話題で書いていたので、精神衛生上よくないと思い、ちょっとがんばって明るめの日常を書いておこうと思います。

10月からすっかり生活が変わっちゃったなぁっていう、どうでもいいお話です。

 

・・・

 

週に2日、百万遍まで自転車を漕ぐ。

かならず、背中とチャリの前かごに楽器を積んで。

 

最初のころ、たいてい出掛けるのは夕方だったけど、バイトを増やしたりして今は真夜中にペダルを漕いでいることが多い。

 

籍のある私立大学の衣笠方面から、鴨川を渡り某国立大学へ。

ざっと京都市横断みたいな感じ。多い時は週3とか。

我ながらよく行くなぁって思う。時間帯的にも距離的にも荷物の重さ的にもきついのに。笑

 

・・・

 

きっかけは、とあるライブの後にそこに居合わせた面子で行った飲みの席で。

 

わたしはちょっと変わった音楽サークルにもともと所属していたのだけど、

じぶんでYouTubeを漁って好きな音楽をとことん聴きまくることにしか、京都に来てからの3年間を使ってないみたいな、ほんとうに好き勝手をしてて、それまで。

(というか、いまもなんだけど笑)

 

ネット上でそれまでいろんな音楽に出会ってきたのだけど、そのなかで当時にわかに興味の湧きだしたジャンルがあった。

じぶんなりの切り口からそのジャンルの動画を漁っている際中、知り合いのミュージシャンが企画したライブにFacebookで誘われた。

そのライブに渋々ながらも出向いたことが、こんな風にじぶんの環境をあっというまに変えていくとは思いもよらなかったのだけど。

 

・・・

 

ブルーグラス」っていうアメリカで発祥した音楽ジャンルがある。

誰もが学校かどこかで習った記憶があると思うけれど、アメリカ大陸はヨーロッパから

の移民という大きな歴史の転換点を迎えて現在の形に至っている。

 

人の移動というのはすなわち文化の流入とか混交を意味するところだけれど、その文化の中には音楽もあった。というわけで、アイルランドスコットランドからアメリカに音楽文化が渡っていった。

そしてできあがったのが、ブルーグラスと呼ばれるアメリカ南部独自の音楽ジャンル。

基本的にテンポが速めで、各々の楽器がソロをまわしあったり、歌のハモりが特徴的だったりする。

 

でも音楽ジャンルとして確立したのは意外と最近のこと、1945年前後らしい。

20世紀になってレコードやラジオが普及したことが大きく後押ししたみたい。

 

・・・

 

一方で、「アイリッシュ」という音楽ジャンルがあって、これは先に書いたブルーグラスのもとになった、アイルランドの伝統的な音楽のこと。

特徴的なのは、どの楽器も基本的にメロディをそっくりそのままなぞるのを繰り返すっていうところ。

そのメロディ自体に独特のリズムが組み込まれていて、そのリズム感を再現しながらメロディは演奏されなければならない。

 

現代的なアレンジでは伴奏が目立つようなものや旋律そのものをアドリブで変えているものもある。

もともとのトラディショナルな形式と、そこからかなり飛躍した派生形が共存しているのもアイリッシュ音楽の魅力というか、興味深いところだと個人的には思ってるけど、まぁいろんな意見があったりする。

 

・・・

 

ここで話を戻すと、

わたしがそれまでメインに据えてきたのがアイリッシュで、にわかに興味持ちだしたのがブルーグラス

「夏のおもひで」という、勇猛にも京都一のお祭り「祇園祭」の最終日に日程をかぶせた挑戦的な企画ライブで、京都のブルーグラスを引っ張る同世代の面々と仲良くなれた。

そしてライブ後に場所を変えて現役の学生だけで飲みに行き、その場のノリで某国立大学のできたてブルーグラスサークルに入部してしまったのだった。

 

あのときはてっきり新入生バンドに臨時でゲスト参加するみたいなものかと気楽に構えていたのだが、練習に参加するうち、これはどうにも、わたしは正式に入部してしまったらしいということに気付いていった。

 

正直言わせてもらうと、「やっちまった感」が半端なかった。

 

だって3回生から新しいサークルに入るとかマジで終わってるでしょ。どんだけだよ。

 

とさすがにじぶんで突っ込みをいれたくなったものだ。

 

・・・

 

百万遍の大学に出入りするようになったのは10月からだった。

「夏のおもひで」から9月いっぱいまで、わたしは関東の地元に帰省して車の免許をとっていた。

 

自分の私学とのいろいろな意味でのギャップに驚かされつつ、練習は毎回楽しかった。

 

今年の秋は始まるのが遅く終わりが早かったので、全体的に短かった。

10月中はまだ暑くて、半そでを着ていても平気なくらい。

なので、外に楽器を持ち出してバンド錬をしたりしていた。

 

さすがに11月からは寒くなったので、屋内で練習をするようになった。

屋内だと暖房が使えるので、寒くなってきたしそろそろ帰ろうという発言が起こらない。

 

一通り活動を終えてからみんなでごはんを食べに行き(この時点で9時をまわる)、ついでにコンビニでお酒とつまみを買い(10時近い)、屋内に戻り楽器やボードゲームで遊び(遊び始めがだいたい11時半ごろ)、そのまま朝を迎える(6時)といういかにもな大学生ライフ。

 

もちろん帰宅したらいつのまにか寝落ち。あっというまにバイトの時間になり急いで支度して家を出、ふたたび帰宅するのはまた日付が変わるころ。

そんな体たらくには我ながら呆れるしかない。笑

 

それまではせめてもうちょっと、学校には行かないなりにもマシな生活を送ろうという意志があったのに、わたしの決意はいつも、思っていたより脆弱みたいです。

 

・・・

 

 

ただ、ひたすらに楽しいというのはよいことだと思った。

 

いやなことも疲れて寝てしまえれば忘れられる。

一週間前に悩んでいた内容など、普通の人は覚えてなんかいないだろう。どんな悩みも、結局はその程度のことなのだと思う。

 

昔大事な人が手紙に書いてくれた。

「物事の良い面を見ろよ」ってこういうことかなって、あのときは全然素直に受け取れなくて、なにも知らないくせにっていじけてたけど、手紙をもらってもう6年経つのか。

やっと素直になれそうだよ。でもその手紙、もうないけどね。もう読めないね。

 

これはなにかのSNSで流れてきて見つけた。人生は娯楽だって。

芥川龍之介も言ってた。人生はマッチ箱に似ているって。

そんなものだよ、と思って、行きたい方向に単純に流れていけたら幸せなんだろうか。

 

 

 

やっぱり最後は重くなってしまった。笑

 

・・・

 

心ごろし

兄は流産で死んだ。

 

この一言だけで、わたしにとっては完結していて関係のない話のはずだった。

へぇ、兄がいたかもしれないのか。生まれていたらどんなひとだったんだろう。

会えてたらなにを話せたかな。幼い頭で自力で考えられた感想は、それぐらいのものだった。大人の考え方を大人の言葉で借りたのがいけなかった。

 

「お兄ちゃんがもし生まれていたら、あなたたち姉弟は生まれてこなかったのよ。

特にゆり、あなたはぜったいに生まれてこれなかったと思う」

 

この母の一言がその後わたしに何十年分もの重しを載せた。

 

自分の生まれてこなかった可能性。

ぜったいに同時には存在できなかったわたしと兄。

お兄ちゃんがいたら、という可愛らしい想像の世界は一気に吹き飛んだ。

どちらかが運により生き残った。

片方は死んだ。片方は本来、先に受胎されただの細胞ひとつのまま、母の胎内を通過しただけだったはずが、先のものが死んだからたまたまヒトのタマゴになれた。

 

母はよく兄の話をした。

兄のことを愛称で呼んでいた。

わたしも兄のことを母といっしょに楽しく和やかに話そうと努めた。実際そうした。

母が一通り兄のことを話し、気が済んだらしいとわかると幼いわたしは席を外した。

そういう日は、トイレかお風呂がたいてい長くなった。あるいは眠れなかった。

考え事をする癖がついた。

人の言動を勘ぐる癖がついた。

人の感情の揺れ動きや、表現の変化に敏感になった。

 

「ママは、どっちに生まれてきてほしかったのかな」

 

考えても仕方ないことだと幼いながらに自覚しながら、やはり考えてしまった。

いまでも、考えることがある。

実際に生まれてきたのは、あたしだ。だからお兄ちゃんのことは関係がないし、お兄ちゃんがもし生まれていたらなんて、考えても仕方のないこと。

 

大人だって考えても仕方のないことを日々考えてしまうのに、小さい私がわたし自身にブレーキをかけることなどできるはずもなかったと今は思っている。

 

 

母が兄の話をした日は、自分のいない世界を想像した。

若い母が抱いているのはわたしではなく兄だ。

受胎したときの条件がほぼ変わらなかったのなら、きっと兄も私と背格好は似てたはずだ。

背が高くて、釣り目は切れ長で、筋肉がつきやすくて、自分の容姿はまるで男の子みたいだとずっと思っていたし、ほんとうならお兄ちゃんの自意識がこの体に入っているのが正しい形だったんじゃないかな。

弟たちは、ママが言っていたように、わたしがお兄ちゃんだったとしても、今のように生まれてきた可能性がある。わたしが受胎したのはお兄ちゃんが死んでそんなに経ってなかったはずだけど、弟たちになった細胞というのは、兄が死んでどちらにしろ何年か経った後のはずだから。

そうしたら、わたしだけが兄と存在できなかったってことか。

 

小学3年生にあがるころにはそんなことを考えていた気がする。

 

学校の帰り、友達と別れて一人になる道で毎日考えていたことがある。

想像上の兄と頭の中で会話をするという試みだった。

自分の中で兄という存在をきちんと消化しておきたかった。

自分の頭の中から、はやく出ていってほしかった。

だから自分の中でつくりだした兄のいた可能性について、兄と話して充分に和解して、母が兄の話をはじめてもうろたえないようにしたかった。

 

その過程で、私がつくりだした想像上の兄に、一番聞くべきではなかったことを聞いてしまった。

「お兄ちゃんの方が先にこの世に形ができて、ママのおなかに宿ったのに、運が悪くて死んじゃって、そのあとお兄ちゃんだったかもしれない細胞の残りと養分を吸収して、普通に生まれてきたわたしを恨んでる?」

 

母が兄の話をするときよく言っていたフレーズで、「ゆりは魂2倍なんだから、お兄ちゃんの分もがんばって生きなきゃだね」というのがあった。

「お兄ちゃんだったかもしれない細胞の残りと養分を吸収して」というのはそれを踏まえてのことだった。

 

母に兄の話をしてほしくなかった。

流産した母親にとって、胎内で死んでしまった命というのはきっと忘れがたいだろう。

でも忘れてほしかった。

いま母の目の前にいるのはわたしたちなのだ。せめて私たちには兄の話をしないでほしかった。

 

月日は流れた。

兄は相変わらずいない。

でもわたしの頭の中には兄がいて私のいない、いまわたしのいる世界が存在し続けている。

兄はわたしと同じ顔をしてわたしのようにして私よりもずっと快活にそこで生きている。

そこで兄がいきるために消費しているのはわたしの精神力だった。

わたしのメンタルを蝕みながら、母が喜ぶから、幼い私が守ってきた母のための兄の世界だった。

 

自分の首を絞める行為だとわかっていても、がんばってきた幼いわたしに免じて、兄のいた可能性はいまだに影濃く残してある。

 

幼いころ母に口応えするとよく言われた。

「子供って残酷だよね。そうやって人の心をわからないんだから」

 

そうだ。子供のまま大人になった人はそうやって残酷だ。

人の心をわからないまま、子どものことさえ鋭利に傷つけるのだから。

そういう人が大人になっていく人の心を殺すのだ。

 

泣くことがつくるものって何だ

人前で泣くことって、片手で数えられるくらいの人生の大ごとだ。

 

そもそも一人で泣くことだってそうそう無い。だって泣くようなことないもん。

そう思っていたはずだったのに、最近は涙もろい。

 

 

強く自立した女性って素敵だよね、とよく母は言っていた。

まるで、仕事一筋でどの学校の同窓会にも行かない、ママ友も作らず休日に遊ぶこともまったくせず、休日は家で家族と過ごすもの、と頑なに唱え続けた自分の人生を正当化したいかのように。

 

でも母は自立していたのか?周囲に他人を置かないから、1人で居ざるを得ないだけでは?それは自立ではなく孤立なのではないか?

ある程度脳ミソを働かせることができるようになってからは、そんな疑念が絶えなかった。

 

「孤立」というのは、いやな響きだ。

間違っても身内にそんな言葉が当てはまっていてほしくないし、自分がそんな哀れな形容詞に修飾されるだなんてぞっとする。

だから母のようにはならないつもり。だったのにな。

 

けっきょく、私は母の実の娘である。

幼いころ、何もわからない頃、私は母の価値観の忠実な信者であった。

母が絶対に正しい。そして母は私の絶対の味方なのだ。母が大好きだ。母も私を愛してくれている。私は愛されている。

 

きっと誰だってそうだろう。高校の時の担任が言っていた。

小学校の先生と母親は、人の人生を真に左右することのできる職業だ。だからそれらにいずれなるというのなら、その責任の重みを知れ。お前らの価値観に子供は強く影響されちゃうんだからね。

 

本当にそう。

私が母の価値観やその表現の仕方、生き方にまではっきりと疑念を抱き始めたのは、小学5年生のころだった。

何かがおかしい。

母はこれが絶対に間違っていない、まともな生き方だと言う。

友だちとうまくいかないことを相談すると、いつも相手の子に理解がないという結論に帰着した。しかも毎回ほぼ即決だった。悪いものは悪い。良いものは良い。あなたは私の娘なんだから、私はいつもあなたの味方だからね。相手の子がおかしいのよ、レベルが低い。いつも、いつも同じことを言い聞かせられて、それで終わりだった。

 

私は納得のいった試しがなかった。べつに自分を無条件に肯定してもらいたくて話しているわけじゃない。もっと客観的で、現実的で、実際に状況を打開できる解が知りたかった。

自分がいつも正しいわけがないなんて当たり前すぎる事実で、だからむしろこの人はだれにも教わることができなかったのかな、と心の底ではちょっとした軽蔑も育っていったと思う。

 

母は基本的によくできた人物だと思う。

家事も仕事も一度も休まず、3人の子供を育て、夫や親せきの世話もよく焼いた。慕ってくれる部下や同僚に恵まれ、反発してくる上司もいたが、味方と楽しく協力してうまくかわしていた。

いつも身ぎれいにして、美人な人だ。ビシッと決めるときは海外のファッション雑誌のようなモードな装いができるし、休日に出かけるときはアメリカの西海岸のお姉さんみたいなカジュアルな服装も良く似合っていた。

化粧品やボディクリームにこだわり、服装だけではなく身体の美容にも抜かりがなかった。女性としても魅力的な人だと思う。

 

だからこそ、というか。

私は、母と同じ道を進もうとはしなかった。というのも、進めなかったのだ。

客観的にも、主観的にも、母は「社会で活躍する女性像」そのもので、誰もがそれを認めていた。そして、適切な分よりも少しだけ過剰な自信があり、本人の主張の強さへと結びついていたように思う。

 

家庭での母の顔は、たぶんそんなに仕事をするときと変わっていなかったのだろう。

効率、効率、とよく言っていた。

おかげで私は非効率をとことん愛した。母のいないときは非効率が許された。ダラダラとテレビを見たり、ゆったりとベランダで洗濯物を干したり、ただ音楽をかけながらベッドでゴロゴロしたり。

そうした姿を見ようものなら、ちょっと、そんなことしてて大丈夫なの?と睨まれたり、ちょっと貸して!わたしがやるから、とやることを取り上げられたりした。

 

私はいつも切羽詰まった母のいる家が好きではなかった。

もっとリラックスして過ごしたくて、いろいろ工夫した。

自分の部屋を絵や観葉植物や綺麗なタペストリーで飾ってみたら、こんなの邪魔じゃないの、と鼻で笑われた。

まあ、確かに邪魔と言えば邪魔なのかもしれないし、流行の先端を知っていなければならない母から見れば「ダサい」の一言だったろうと思う。

 

楽器をやってみたい、といったら時間をみつけて祖母に教わればいいと言われて終わった。わたしは真剣にやってみたかったのだが、母にとって音楽は生命活動ではもちろんなく、ただの教養でしかなかったのだ。

 

代わりに望んでもいない習い事ばかりさせられた。

体格の大きい私が小学6年生の時、小学校低学年の生徒が基本のスイミングスクールに入れられたときは発狂しそうなくらいに恥ずかしかった。

なぜか空手を一年だけ習ったが、ほとんど年端も行かない生徒の遊び相手をしていた。

剣道もやらされた。これは本当に嫌だった。怒鳴られるし、他人に罵声が飛ぶのも好きじゃない。先生に面を打たれれば痛い。頭がグラグラした。

習字は比較的自分でも好きで、5段までいったが中学に入り部活が忙しくなるから今月でご挨拶してきなさいと言われ、そうした。しかし、中学の部活は半年も経たずに辞めた。こちらは自分の意志で辞めた。

 

自分の21年間に何の意味や価値があるのかはわからない。

だけれども振り返ればあまりにも他動的で、母の言動にただ振り回されているだけだった。そしていまでも振り回されているという意味では同じことだ。結論が正反対に出ているだけで。

要するに今も私は母の価値観の影響力のもとで生活しているわけだ。

 

 

逃げ切れないんだなと思う。

自分が可愛そうで泣く涙は卑しい、とどこかで聞いた気がする。

それならば私は卑しい人間だ。清貧でまともな人間を今さら目指したところで。

 

そして泣き方がわからないと思うことがなくなった。

 

いままで泣くと言ったら、嗚咽を漏らさないように、涙のしずくさえ垂れないようにと目を真っ赤にするにとどめていられたのだ。

そうすることが正しくいやらしくない、同情を集めない泣き方なのだと信じて実行していた。

でも今ではいい年こいて、ぜんぶダダ漏れさせてしまう。人前でさえそうなってしまっていたことに自分でも驚く。嗚咽といっしょに全部ぶちまける。むしろこっちが泣くことの効用を存分に発揮するためには正しいのだと知った。

 

そしてまるで小さな女の子のように幼い泣き方だなぁと自分を軽蔑する。

もっと大人の女性な感じの泣き方は、できないんですかねぇ。

嗚咽もこんな女の子みたいな高い声でヒクヒク自分がするなんて気持ちが悪い。そんな女の子キャラじゃないくせに。かっこわるい。

 

膝を抱えながら、その姿を後ろから眺めて皮肉を投げてくる自分の心の声を無視して泣き続ける。けっこう気分がいいものだ。自分を傷つけてくる者のことばを無視するというのは。

 

夏休みに長く地元に帰っていたのだが、とある男友達2人に全然別の場所で、異なる話の流れで言われた言葉がある。

お前、人生失敗してるねぇ~~~。

分かるわぁ~~。としか言えないくらいにはシリアスなコメントだった。だってこれからどうすればいいのか、自分の過去から糸口が見つからない以上、どうしようもない。

 

でもだれにどうしてもらえるものでもない。人生のかじ取りをしてきたのは結局じぶんなんだし、責任は自分でとって然るべきなのだ。だとすれば、わからないと泣いてばかりいるのが一番無駄なのだろう。

 

でも無駄なこと好きだからな。とりあえず客観的にも主観的にも、非効率な人生は突き詰められているから、もしかしたらこれはこれで形になるのかもしれないし。いつになるかはわからないけど。

 

今泣いてることがつくるものが何になるのかくらいは、楽観させてほしい。