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安いコーヒーとコンビニのマカロンの相性はいいと個人的に思う

さいきん熱いコーヒーが飲めるようになった。

前は猫舌で全くダメだったのだが、この歳になって改善しつつあるようで嬉しい。

 

 

昔のことを思い出している。小学生のころ、わたしは男の子も抜かして一番背が高くて、体力もある方で、勉強も好きで、勝ち気で男勝り、来ている服もユニクロやGapの男物、スカートなんか意地でも履かないし、何が何でもショートカット。口から飛び出る漫画で覚えたスラング、すぐに手が出る足が出る。尊敬できない先生には徹底抗戦を張り、議論も厭わず、成績が優秀なら大人とも対等な態度でいて文句ないだろう、みたいな高飛車なところもあったりして。なんだか懐かしいなぁなんて呑気に思い返しているけれど、当時の周りのひとたちは、きっと大変だっただろうなー。

 

小学3,4年ごろのクラスメイトに話すとき、「お前、変わってない」と言われるけれど、どうなんだろう。自分では一応、問題のある所は変えてきたつもり。なんだけどな。わからない。

 

中学生のころは、逆に大人しすぎてほとんど誰とも話さなかった記憶がある。

正確に言えば、小学校の高学年のときに個人的にいろんな意味で大きな出会いがあって、そこから徐々に内面的に大人びてきたような。

2年生からは担任の先生との相性が悪かったのと、高校受験のプレッシャーとでもはやうつ状態だった。高校はそれを3年間ずっと引きずってしまったのであまりこれといった楽しい思い出がない。

 

コーヒーに砂糖を入れ過ぎたみたいだ。最後の一口がすごい甘い。

ファーストフード店のホットコーヒーの、妙に味のきつくて舌に残る感じ、わりと嫌いじゃない。いかにもB級でしょとでも言いたげな、開き直った感じがむしろ清々しい。

 

他の人がこんなに日常的に過去を振り返ることがあるのかは知らないが、自分で自分のことをあまりにも懐古主義的だと思うことはよくある。

前はこんなじゃなかったのに。とか、あのときはああできたのに、今は。だとか、そういうちょっと過剰な振り返り方をしがちなのは、中学生のころに習慣化してしまっただけで、自分の生来の気質とはだいぶ違うような気もするけれど、なかなか直らない。困ったものだ。

 

このあいだ友達とお寿司を食べていて、ずいぶんいろんな話題で話した。「1回生のころと全然違う」と言われて、半分驚いたが、半分知っていたような。「そうだねー」と同意していた。まぁ、そうだよね。違うよね。

 

突然目の前に自由な空間が開けて、ここでなにをするのもあなたの自由よ、と言われても、たいていはその真っ白なキャンバスを持て余してしまう。

一番多感な時期をうつ状態で過ごしてしまい、好きな気持ちが枯れて義務化していた勉強という名の暗記作業以外に、なにもしてこなかった。その負い目もあって、やり方もわからないままにとにかく「らしくないこと」をした。それを継続した結果なのだから、大学に入学した当初と現在の印象に隔たりがあったとしても、当然のことなのだろう。

 

現在の印象としては「なんか、擦れた(笑)」とのことだそうだ。以前にもサークルの後輩に「擦れてますよねぇ」と言われたことがあるのを思い出して、だよねーとそこも同意した。

 

擦れてると言われてもまったく嬉しくはないけど、きっとその表現は適切で、いい変化をしたのかと聞かれれば、たぶんそうじゃないと自分で答える指標にはなる。

 

だからといって、良くしていこうと努力するのも違う気がして、結局話のネタにする以外に自分が擦れてしまったことについて何も行動はしていない。1人暮らしをはじめて2年が経過するところだが、この姿が生来のもののような気がしてきた。あとは、ネガティブ思考と懐古主義さえ、直れば。

 

たいていのことは時間が解決してくれるはずだ。時間の経過が軋轢を生むこともあるのかもしれないが、たぶんそれはわたしが御婆ちゃんになるまで生きていたとして、そのころに身をもって体験することで、今は関係がないだろう。たぶん。早く自分の言動に不自然や違和感を感じることがなくなればいい。もっと単純に、素直に生きていたいのだ。

 

他人のためにとか口に出す人たちは、他人のことなんかこれっぽっちも気にしてはいない。行動に出てしまうものだ。そういうのは。

 

世の中のためにとか、社会のためにとか、会社や組織に自分が貢献したいだとか、全部嘘だ。そんな漠然としたもののために、生命体が動けるものなのか疑問だ。世の中も、社会も、会社も組織も、ぜんぶ自分の中で本来のものとすり替わってる。

 

わたしも社会を変えたいだとか発信していた時期のある類で、いまそのときを振り返ると、ほんとうにわたしが変えたかったのはそれまでの自分のことだと結論がつく。そういった発信活動によって他のだれかになりたかった。自分の問題を直視できないから、社会に相手を置き換えた。曖昧なものに対する曖昧な発言には、必ずいいね!が送られてくる。

 

もう正直に生きていきたいから、自分のために楽しい人生を送ることに余念のないようにしたいけど、こういった背景もなにもかも、全部飛び越えてこれからの人物評価が自分に下るのだと思うと、ちょっと気持ちが拗ねてしまう。

 

安っぽいコーヒーを飲んだ後には、コンビニのマカロンが食べたくなる。でも、いつも売っているわけではないし、最近店頭に見ないので今日は諦めることにする。外出るの寒いし。

 

まぁ、他人の人物評価なんてものはそもそも厳密になされることなんかない。というか、他人の考えていることだ。わたしがわかるはずもなければ、相手もわたしの考えなどわからないだろうし、予想をつけたところで答え合わせもできはしない。

 

考えても無駄なことだ。それは、考える優先順位は最下位でいい。

自意識ばかり膨れ上がるのは危険なことだ。自分の発信することなど、たいていの人は目もくれぬ。振り向いてくれたら、目が合ったら、ラッキーなのだ。それだけ。

 

やっぱりマカロンを探しに行こうと思う。売ってたらラッキー、くらいで。