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すれ違った人たちについて

もう会わなくなった人がどれくらいいますか。

 

わたしは結構います。

辞めたバイト先、転校して身近にいなくなった友達、昔の先輩。とか。

 

たまにインスタとかでどこからか流れてきて、ああ、元気そう。とか、活躍しているようで、良かった。みたいな形で間接的な再会をすることもあるけど、

だからと言って、じゃあDMして連絡取ってみようなんてなることは本当に稀だし、その後ラインは交換して端末上ではよく話すものの、やっぱり実際会おうってなることは少ないし、会おうって言ってたとしても実際何かしらで会えずに終わってまたの機会に、となることもあるし。

 

要するに、会わなくなった人とまた会うのって、お互いに会う意思無しにはできないことだと思う。

 

 

じゃあ、

これからもう二度と会わないだろうってかなしい予想が立ってしまう人は、どれくらいいますか。

 

わたしは、結構、たくさん、いる気がしてしまう。

 

事実として何年も会ってないわけではなくて、わりと別れたあと時間が経っていない方なのに、何らかの理由で「もう会わないだろうな」って、なぜか思ってしまいたくなる人。

 

数年のあいだにたくさんできてしまった。

 

大学入学当初、勉強ですごくお世話になった先輩。遠距離恋愛の結論として別れた恋人。最初は意気投合していたのに、だんだんと価値観が違ってきて連絡も取らなくなった友人。あとは、そのひとたちの周りにいた人たち。仲の良かった思い出だけ取り残して、とんずらしてしまいたいから、会いたくない。お世話になった記憶が、痛い。

 

あのときお世話になったから。あんなに仲良くしてたから。

そんな風に、すこし歪んだ情の湧き方をしてしまうと、余計に関係がぎくしゃくする。

 

すれ違ってしまったんだ、と思えばいい。

 

最果タヒさんという文字を書く人の文章を、たまたまツイッターで読んだ。

もともと好きな感じの文章を書く人だと思っていたけど、まとまった量の文字列を見るのがはじめてだったのと、ああやっぱり好きだ、と確認したのとで心地よい衝撃を受けた。

 

宇多田ヒカルが好きなひとは世の中にありふれていても、それが何故なのかとか、どんなふうに好きとかいうのをちゃんと語れるひとなんて、たぶんそんなにいない。

まぁ、小難しい何とか理論とか音楽市場がどうのとか、リスナーとか時代の流行がとかの、宇多田ヒカルでもその人自身でもない、まったく外在的でどうでもいいトピックに縋ってなら、いくらでも語れそうなひとはいるんだろうけど。

最果タヒさんは自分自身についてただ真実を語っているような気がしたので、個人的には好ましかった。そして、その人は「宇多田ヒカルという人物と、人生においてすれ違った」のだそうだ。別に引用ではないけど、なんとなく強調したくなったので、かぎかっこをつけてみる。

 

どういうことかというと、

宇多田ヒカルという人物そのものに特に興味が湧くわけでもないし、直接の接点も別になくてまったくの他人であるのに、宇多田ヒカルの歌は最果さんの過ごしてきた時間の随所に記憶のイメージとして溶け込んでいる。それほどの存在感があるのに、やっぱり宇多田ヒカルのプロフィールや生い立ちにはいまだに関心がない。わたしの誤解がなければ、それをもって最果さんは宇多田ヒカルと「すれ違った」という。

 

わたしたちもまた、すれ違っている。

 

数々の媒体で間接的に出会っているのに、お互いに顔も名前もいつ会ったかもわからない。

影響は確かに受けあっているのに(FF数とかアクセス数とか何かしらのリアクションとか単純に感動するとか)おそらく現実で媒体での活動について話すこともあまりない。というか、なくていいので楽だし、暗黙の了解であちらとこちらは別世界、ということになっているようなのでそれに甘んじる。

 

もう会わなくなった人も、これからおそらく会わなくなるであろう人も、それと似ている。影響は、きっとお互い(かどうかはわからない。片方は覚えていて、片方は簡単に忘れられているのかもしれない。)に継続する。人間は、たまに思い出したりするからだ。だけれども、よっぽど会おうとしなければ、きっと会わずに終わる。

 

わたしは懐古主義的なところがあるので、日常的に異常なくらい昔の記憶を引っ張り出したりしまったリする癖がある。そういう人間なので、会っていない人たちの影響はむしろ、いま週に何度も顔を合わせる人たちよりも、たぶん何十倍も強い。

でもそれは、彼ら・彼女らについて私の持つイメージに影響を受け続けているというだけのことで、彼ら彼女ら自身や、今の姿を知ってのことではない。そこは、区別していないと間違いだと思う。

 

会わない人たちが今ごろどうしているのかと考えるとき、わたしは独り相撲をしているだけなのだ。実際に彼らや彼女らが今の私と交信しているわけではないのに、なぜか一方的に記憶から引っ張り出して思い出しているだけで、現在も意思だけは疎通できているような、そんな変な疑似の感触に襲われることがある。それは、ただ単に自己満のために感傷に浸っているだけで、ナルシシズムに近いと思うので、早くやめたい。

 

会わない人たちとは、会っていないということは、もう既に遅いのだ。既にすれ違ってしまったあとなのだ。事実はきちんと受け止めるべきだ。そうでないと対応を間違えるから。それに、いま会えている人たちともいずれはすれ違うのかもしれないし、いちいち何かあるごとに思い出の引き出しを開けるのはやめて、現在のことに脳ミソを置き続けるべきなのだ。数日前や一週間前のことで今の頭の容量をいっぱいにしていても、いったいなんの足しになるのだろう?

 

すれ違った人たちについては、もう諦めるべきだ。

 

次がないことだってある。